諦めか諦観か
ぼんやり火曜日。
なんだかぼやっと過ごしていたら今日も遅くなってしまいました。
ちゃちゃっと何か書いて、今日もちゃんと眠るようにしないと。
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今日も特段何かがあるわけではなく、何を書いたものか…って感じですが。
また軽くぼんやりと考え事でもして済ませましょうか…。
このブログ、現状非公開にしていない以上は誰の目にも触れる可能性が無くは無いわけで、極端な話、顔見知りが目にする可能性だってゼロではないわけで。
そんな中であんまりグチグチとドロッとしたものを書き連ねるのもどうなのか、なんて気持ちも全く無いわけではない。けれどまぁ、その時はその時なのかなぁという結論に至るので変わらずこうしています。
別に何か隠し通さねばならないものを抱えているわけでもなく、壊される可能性のある大事なものを持っているわけでもなく、そんな今だからこそ…とも言えますが。
わざわざ伝える必要のないこと、表に出さない方が上手く運ぶこと、そういう諸々って実際色々あるものだとは思う。そういうものをその時々で沢山抱えながらこれまでの人生を歩んできている。
それは承知の上で、それでもどこかに吐き捨てたくなることがある。単なる憂さ晴らし、内部崩壊の予防、どういう理由かはバラバラだけれども。
吐き捨てても許される場があればそこに吐き出せばいい。けど、そういう場を持ち合わせていない人は「我慢して抱え続ける」か、それとも「人知れず吐ける場所を見出す」か、選ぶことになる。
正直に言えば、そういう場を常に持ち合わせている人には持たざる者への共感なんて微塵もできないだろうと私は思っている。それは能力云々とかではなくて。
自分自身もそうだけれど、自分にとっての「当たり前」を自覚することってとても難しい。まして、それが無い状況を自発的に想像して正しく思い描く~だなんてことはもっともっと難しいことだと思う。
これは結構普遍的に言えることなんじゃないかなと思っていて、他者と関わる上で生じる齟齬や違和感が(広い意味で)ここに由来することも多い…気がしている。
例えば、飢餓を経験していない人が当事者の心理を語るなんてできないし、鬱を経験していない人が鬱患者を真に理解することなんてできない。そんな風に思っている。
家族と普通に暮らせる人は、そうじゃない人には持ちえない「当たり前」を無意識のうちに抱えて生きている。だからこそ、前者が後者に対して、後者が唖然とするようなことを(まさしく"息をするように")発言することだってある。いや、あった。笑
そういった実体験も交えつつ、拡張して物事を想像してみると結構色んな事が「そういうもの」なんだろうなっていう考えに至る。仕方のないことなのだろうと。
そんな思考を経た上で、このよくわからないブログを見て鼻で笑うような人が世の中には多々いることだろうと想像する。するけれど、仮にそうだとしても「勝手に笑ってれば?」っていつからか思えるようになった。
なぜなら、そういう人間には私も興味が無いのだと気付いたから。
そもそも気にする必要が無かった。それきっかけで離れるような人だったら別に、居てもいなくても変わらないから。とても単純なことだった。
いや、さすがに多方面に喧嘩を売るようなこととか明らかな迷惑行為とか露骨なヘイトスピーチとか、そういう「常識外れ」レベルのはアカンと思いますけどね。
けれど、なんかこういう目立たない場で愚痴を書くくらいのことだったら別にいいのかなって思うようになりました。昔はどこか「どこでも常に周りを意識しなきゃ…」みたいな見えない使命感に駆られていたりもしたものですが…。
その辺り、良くも悪くも年月を経て変わった所なのかなって、ふと思った。
ま、その「常識外れ」が何処なのか…というのも個人差が大きいですけどね。笑
何事も人それぞれな側面があって一概に言えない事ばかりなのが難しい。けど逆に、そういうものだと思ってしまえば少し気楽に構えられるものなのかもしれません。
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日付変わりそうだし、この辺りで終わっておきましょう。
最近は外の寒さもどこか落ち着いたような感じが…? 換気扇を回してもあまり凍えなくなりましたね。
今週もまだまだ前半。明日以降もいい感じに乗り越えていきたいところです。